鬼畜の家 | 悲劇の連鎖が浮かび上がる
本書は、子どもの虐待死事件について調べたノンフィクション。
犯人である親の実像に迫っている。
わが子を殺すような犯人は、いったいどういう人間なのか。取材によって生い立ちや人間関係が見えてくる。
過去5年読んだ本の中で、1,2を争う衝撃だった。
本書を読む前
何が衝撃かといえば、本書を読んだ前と後で、事件についての私の見方が変わったこと。
親が実の子どもを虐待して殺すというのは、通常の人間観として受け入れがたい。
しかも、虐待はむごたらしく、犯人は逮捕されても罪の意識がない。
本書を読む前は、犯人である親にたいして嫌悪感と憎しみしかわいてこない。
この認識が変わるというのは、ありえないと思っていた。
連鎖としか言いようがない
しかし、本書の著者は、親の人間関係、置かれた状況、そして生い立ちについて調べ上げている。
それを読むと、犯人である親の生い立ちや状況は、悲惨の一語に尽きる。
たとえば、「 厚木市幼児餓死白骨化事件」のケース。
母親は失踪し、父親は育児をネグレクトして、幼児は餓死した。
逮捕後、その父親は、ごくたまにコンビニのおにぎりを与えるなどしただけで、「できることはやった」と言い張った。
まさに憎むべき事件だが、まず父親の生い立ちが悲惨だった。
その男は、子どもの頃に母と妹と生活していた。母は重い統合失調症を患っていて、夜がくると火をもって「悪魔が来る」と暴れるようになる。
小学生のとき、逃げ場のない家庭の中で、唯一の保護者である母親が壊れていくのをずっと目の当たりにした。
その結果、いっさいの問題に対して、何も行動を起こすことができない受動的なパーソナリティが形成された。
やがて、その男は、結婚して妻は失踪、働きながら子供を育てることになるが、とても育て上げることはできない。その問題を解決しようとせず、放置することしかできなかった。
これはその事件のほんの一面だが、どの事件についても、子どもを虐待した犯人たちの生い立ちが普通じゃない。
悲惨な事件の責任
罪のない子どもの虐待死、という悲惨な事件をみると、とにかく犯人への怒りがわきあがる。
そして怒りや嫌悪感を犯人にぶつけること、つまり犯人を罰することが、唯一の解決のような気がしてしまう。
しかし、調べれば調べるほど、「すべてに原因がある」というか、因果の連鎖が浮かび上がってくる。
どこかの一点に責任を求めても、本質的な解決にならない気がした。
確実なことは、当事者たちに悲劇の連鎖を止める力はないので、社会的な介入しかないと思う。
とにかく、本書を読むと、虐待事件についての認識が一気に変わる。
「鬼畜の家」という厳しいタイトルにしたのも、認識のギャップを狙ったものだと思った。