江戸時代の「不都合すぎる真実」 | よく考えれば良い時代なわけがない
徳川幕府を転覆した明治政府は、当然ながら自分たちの行動を正当化する。
江戸時代は酷い時代だった、江戸時代の民衆は悲惨だったと伝える。
そして「貧農史観」ができあがる。
しかし、最近は、江戸時代を見直す風潮になっている。
江戸時代は平和な時代だったこと。独自の文化を育んだこと。権力者である武士が貧しく、町人が豊かだったという世界でも稀な構造。
何年も前から江戸ブームになっている。
で、本書は、さらにひっくり返して、やっぱり江戸時代は酷かったということを雑学的に書いた本。
進歩がなくなって欧州に遅れた
身分制度があって有能な人でも這いあがれない社会。飢饉を生み出す社会構造。庶民が飢え死にしても放置される命の軽さ。日本史上もっとも男女差別の激しかった時代・・・
冷静に考えれば、昔の封建社会が良い時代なわけがない。
しかし、現代から過去を裁いてもしょうがない部分があるので、本書では横の比較を重視している。
同時代の他国と比べてどうだったのか?という点。
特に先進国だった欧州と比べてみれば、室町時代までは日本は欧州と比べてそん色のない社会だった。
しかし、江戸時代になって以降、致命的なほど欧州に遅れをとってしまった。
部分的にはツッコミどころはある
本書は雑学的にいろんなテーマをあげていることもあり、各項目ではいろいろツッコミどころはあった。
江戸や大阪の住人は特権階級だった・・・というのは、どうだろうか。
江戸城周辺の一等地に住んでいるのは特権階級だけど、江戸庶民の平均値はそうでもないと違う本で読んだことがある。
他にも、殉死は損得でやっていたとあった。しかし、違う本で、世間の圧力に負けて嫌々ながら殉死をやっていたと読んだことがある。
どっちが正しいというより、いろいろな側面があったということ。
私の知識でさえこうなのだから、もっと歴史に詳しい人がみたら、いろいろ言いたいことはあると思う。
本書は江戸時代を低く観ることを前提にした解釈をしているので、その点については留意した方がいいかも知れない。
武士は単なる年金暮らし
本書の中で印象に残ったのは、権力者だった武士は何を根拠に権力者でいられたのか?という点で、先祖が偉かったという一点だけだ。
つまり、武士は、先祖の年金で食っているリタイヤ人間だったのだ。「先祖年金生活者」だった。
そして、その構造をがっちりと身分制度で固めた。朱子学を動員して、言葉遣いに至るまで徹底して固定した。
兵法者や勘定方など、実務を担った一部の武士を除けば、ほとんどの武士は一生ずっとただの年金生活者である。
明治維新によって身分制度が消えて、庶民は抑圧されたエネルギーを爆発するかのように上昇志向に走ることになった。
江戸時代の平和な300年は、いかに日本国民のエネルギーを抑圧し、無駄にしてしまったのか。
外見重視を見習うべき
本書の中で面白かったのは、江戸時代の武士から学ぶ点がひとつだけある、という部分。
それは外見を重視したこと。
平和な時代の武士は、はっきりいえば存在価値がない。だから権威を保つために、徹底して外見に気を使ったという。
服装はもちろんだが、立ち振る舞いも抜群に美しかったらしい。
この点について、特に現代日本の男性は、外見を軽視し過ぎているという。
たぶん江戸時代の支配層にたいする反動だと思う。見栄と外見だけの権力者にたいする反感が、庶民の深層心理にある。
しかし、「人は見た目が9割」というのは世界中の真実である。もう少し外見に気を付けた方がいいと著者はいう。
たしかに、現代の先進国の中で、日本の男性の立ち振る舞いは、美しさにおいて平均を下回る気がする。姿勢、歩き方、しゃべり方、表情の作り方、食事作法、服装・・・。あまりにも気を使わなさすぎる。
私自身、日本の平均値を下げる側にいる人間なので反省したい。
武士に見習うべきは、精神論ではなく、外見の美しさである。
鬼畜の家 | 悲劇の連鎖が浮かび上がる
本書は、子どもの虐待死事件について調べたノンフィクション。
犯人である親の実像に迫っている。
わが子を殺すような犯人は、いったいどういう人間なのか。取材によって生い立ちや人間関係が見えてくる。
過去5年読んだ本の中で、1,2を争う衝撃だった。
本書を読む前
何が衝撃かといえば、本書を読んだ前と後で、事件についての私の見方が変わったこと。
親が実の子どもを虐待して殺すというのは、通常の人間観として受け入れがたい。
しかも、虐待はむごたらしく、犯人は逮捕されても罪の意識がない。
本書を読む前は、犯人である親にたいして嫌悪感と憎しみしかわいてこない。
この認識が変わるというのは、ありえないと思っていた。
連鎖としか言いようがない
しかし、本書の著者は、親の人間関係、置かれた状況、そして生い立ちについて調べ上げている。
それを読むと、犯人である親の生い立ちや状況は、悲惨の一語に尽きる。
たとえば、「 厚木市幼児餓死白骨化事件」のケース。
母親は失踪し、父親は育児をネグレクトして、幼児は餓死した。
逮捕後、その父親は、ごくたまにコンビニのおにぎりを与えるなどしただけで、「できることはやった」と言い張った。
まさに憎むべき事件だが、まず父親の生い立ちが悲惨だった。
その男は、子どもの頃に母と妹と生活していた。母は重い統合失調症を患っていて、夜がくると火をもって「悪魔が来る」と暴れるようになる。
小学生のとき、逃げ場のない家庭の中で、唯一の保護者である母親が壊れていくのをずっと目の当たりにした。
その結果、いっさいの問題に対して、何も行動を起こすことができない受動的なパーソナリティが形成された。
やがて、その男は、結婚して妻は失踪、働きながら子供を育てることになるが、とても育て上げることはできない。その問題を解決しようとせず、放置することしかできなかった。
これはその事件のほんの一面だが、どの事件についても、子どもを虐待した犯人たちの生い立ちが普通じゃない。
悲惨な事件の責任
罪のない子どもの虐待死、という悲惨な事件をみると、とにかく犯人への怒りがわきあがる。
そして怒りや嫌悪感を犯人にぶつけること、つまり犯人を罰することが、唯一の解決のような気がしてしまう。
しかし、調べれば調べるほど、「すべてに原因がある」というか、因果の連鎖が浮かび上がってくる。
どこかの一点に責任を求めても、本質的な解決にならない気がした。
確実なことは、当事者たちに悲劇の連鎖を止める力はないので、社会的な介入しかないと思う。
とにかく、本書を読むと、虐待事件についての認識が一気に変わる。
「鬼畜の家」という厳しいタイトルにしたのも、認識のギャップを狙ったものだと思った。
7日間起業 | 切羽詰まって7日間で作ったサービスで成功
「7日間起業」という起業本を読んだのでメモ。
最初の章に書いてある著者の起業ストーリーが面白い。
著者の起業ストーリー
著者はWEBデザイン制作の事業をはじめた。しかし、心身を酷使するほど働いても、まったく儲からない。
どんな施策を打っても繁盛貧乏になるばかりなので、WEB制作の事業をあきらめて売却した。
売却で得た金で、新しいサービスを作ることにした。アクセス解析のデータを見やすくするサービス。しかし、ユーザーの反応はいいはずなのに、誰も有料版を買わない。
資金が底をついて、この事業も諦める。
とうとう資金は2週間分しかなくなった。この2週間で事業が形にならなければ、雇われの仕事を探すしかない。完全に著者は追い詰められた。
そこで、たった7日でリリースしたのが、WordPressの有料サポート。月額69ドルで、24時間WordPressの悩みにこたえるというもの。
これが当たって、たった1週間で400ドルを手にして、窮地を脱する。その後は、顧客が順調に増えて、事業を拡大することができた。
米国人の自営魂
著者は、雇われで働くことを心から嫌がっている感じだった。
資金がショートしたら職探しをしなければならない。まるでそのことを死刑判決のように嫌がっている感じだ。
起業で苦労すると、むしろ毎月確実にサラリーが入ってくることに憧れる人が多いと思うのだが、著者はあくまで自営したいらしかった。
資金がショートする切迫感があることは、著者の起業ストーリーを面白くしていた。
著者のようなタイプは米国人に多い気がする。
私の場合は、人間関係がストレスになりやすい性格なので、自営業者となったわけだが、もしかしたら米国人も同じなのだろうか?
7日間でユーザーが金を払うか検証
著者の起業ストーリーは、たしかに多くの教訓が得られる。
多額の資金を使って、12か月の期間を費やし、野心的な新サービスをリリースしても、誰も金を払わなかった。
逆に、たった7日間で切羽詰まってリリースした不完全なサービスは、リリース直後に消費者は金を払った。
ここから、可能な限り短期間で、ユーザーが金を払うかどうかを検証することが大事だとわかる。
いわゆるリーンスタートアップと同じ方向性。
本書が強調するのは、「ユーザーの行動を検証する」といったことより、まず何よりそのサービスで金を払う人がいるかどうかを観ること。
メールアドレスを集めたり、無料ユーザーを集めたり、ユーザーに意見を聞いても信用できないという。どんな好意的な反応があっても、金を払ってくれないサービスがある。
そのサービスで消費者が金を払うかどうかがすべてであり、それを検証するのに7日間あれば可能。
それが著者の起業経験だった。
世界システム論講義 | 歴史を動かすのは何か
世界システム論講義を読んだのでメモ。
歴史というと、政治家の名前ばかり覚えさせられるイメージがある。
そのため、あたかも政治家(権力者)が歴史を作っているかのような錯覚がある。
世界システム論は、そういった歴史観を根本的に覆す内容。
近代になってから、多くの地域は閉鎖的に存在できなくなった。それぞれの地域がお互いに影響し合って歴史を作る。
近代の世界史は、地球全体でひとつの有機体のように展開している。
そんな内容。
砂糖の世界史とも重なる
以前、この著者が書いた「砂糖の世界史」を読んだことがある。
世界商品となった「砂糖」を軸にすると、近代の世界史がスッキリ観えてくるという本。
ネットのブログで紹介されていて、試しに読んでみたら、あまりに面白くて驚いた。
植民地、奴隷貿易、産業革命など、世界システム論とも一部重なっている部分がある。
カリブと米国南部の運命
世界システム論の一例として、カリブと米国南部の近代の運命を紹介したい。
どちらも英国の植民地であり、奴隷を送り込んでプランテーションが建設された。地理的にも近い。
カリブ諸国では、プランテーションの経営者は現地に住んでいなかった。なぜなら、儲かったから。
儲かって成功した企業家となれば、植民地に住むことはなく、母国の英国に返って貴族みたいな生活をすることになる。
逆に、米国南部ではタバコのプランテーションだったために、利幅が薄く、経営者は英国に凱旋することができなかった。
これによってこの2つの地域は運命が分かれた。カリブ諸国はほとんどインフラが整わなかった。奴隷と管理者しか住んでいなくて、オーナーが不在のため、インフラを整備する動機がない。
いっぽう、米国南部はプランテーションの経営層とその家族が住んでいるため、街のインフラが次々に整っていった。
その後、発展できなくなったカリブと、発展できた米国南部に分かれることになった。
こんな感じで、その地域の運命は、指導者の資質や決断ではなく、歴史的な影響の中で形成されていることがわかる。
近代以降は、一国の中で完結して歴史を作るのは不可能なのだった。
歴史をみるときに一国で見る癖が直る
世界システム論講義を読んで、歴史をみるときにいつも一国で考えていることに気が付いた。
たとえば、「日本はこれからどうするか?」みたいな議論がある。
あたかも、日本の国会で通る法律によって日本の未来が思い通りになるような錯覚だ。
実際は、米国、中国はもとより、他国と影響し合うことで、意志とは関係ないところで歴史は作られていく。
日本の未来を考えるなら、世界の未来を考えないと、何もわからない。
北朝鮮についても
同じように、北朝鮮についても少し見方が変わった。
今まで、北朝鮮の権力者が、自分の意志で時代錯誤的な政治体制を作ってきたかのように思っていた。だから、「あの国はけしからん」みたいな印象をまっさきに持ってしまう。
しかし実際は、過去から現在にわたる他国との化学変化の中で、あのような国に少しずつなっていったのかも知れない。
世界システム論は、歴史の見方をかなり大きく変えてくれた。
プリズナーズ | 囚われがテーマの上質サスペンス
プリズナーズという映画を観たのでメモ。
感謝祭の日に幼い娘が姿を消す。容疑者として逮捕された青年は知的障害を負っていると判断されて、釈放される。
父親はその容疑者の一言から犯人であると確信して、暴走していく。
こんなストーリー。
(この映画はサスペンスなので、ネタバレを極力ナシにします。ただし、本当に映画を楽しむためには、当記事のような感想文も読まずに映画を観た方がいいです)
囚われの連鎖
とにかく、多くの人が囚われている。ありとあらゆる囚われが出てきて、しかもすべて最後には納得というか、囚われたことに不自然さがない。
まったく違和感なくここまで多様な囚われが出てくるのは、ハリウッドの脚本はすごいの一言。
主人公の娘が囚われたことでストーリーがはじまるけど、連鎖的な囚われが次々に明らかになる。
物理的な囚われとは異なるが、主人公もまた囚われが暗示される。それは思い込みへの囚われ・・・。
そして、主人公が思い込みに囚われてしまったことについても納得できる。この主人公の保守的なパーソナリティからして、娘を失った後で容疑者のあの発言を聞いたら、囚われるしかない。
結局、犯人は誰か。容疑者の青年は何だったのか。
最後の最後にすべての謎が解けるが、上質サスペンスに特有の納得感があった。
刑事の存在がカギ
上記のAmazonリンクの「表紙」からもわかるように、ダブル主演といってもいい重要な役柄。
この刑事が、囚われから解放されるためのキーパーソンとなる。
囚われるのは、子どもだったり宗教的な人だったりと、理性の対極にある人たち。囚われを解除していくのが理知的な刑事。そんな背景が見て取れる。
それにしても、ジェイク・ジレンホールのヘビのような顔立ちは、刑事役が似合う。世の中に凄腕の刑事がいるとしたら、こういうタイプではないか?という気がした。
イミテーションゲーム | 悲劇のアイコン
映画「イミテーション・ゲーム」を観たのでメモ。
アラン・チューリングを描いた作品。
第二次大戦中にドイツの暗号エニグマの解読に成功して、英国を勝利に導くストーリー。
しかし、映画の中で印象的なのは、アスペルガー症候群であり同性愛者であったチューリングの描写。
チューリングの生きづらさと孤独。
そして、暗号解読は戦後になっても極秘扱いとされたため、業績が評価されることのない不遇の生涯が描かれている。
<以下、ごく一部ネタバレです>
殴られる描写
映画の中で、チューリングが殴られる描写が何度もある。
アスペルガー症候群に特有の傾向として、どうしても人を怒らせることを言ってしまう。
周囲の人と上手くやっていけないので、チューリング自身も深い孤独感を抱えることになった。
複合的な悲劇
チューリングの生涯は悲劇が折り重なっている。
- アスペルガー症候群のため、対人関係の困難と孤独を抱えている。
- 今では罪に問われない同性愛ということで、社会的に抹殺された。
- 救国の英雄となるべき業績をあげても、いっさい評価されなかった。
- チューリングマシンの科学的貢献も、コンピュータの発展をみることなく亡くなった。
映画の中では、同性愛の有罪判決を受けて、ホルモン注射をされる話も出てくる。その注射が心身に悪影響を及ぼして、自殺につながったと暗示されている。
また、学生時代に唯一の理解者だった親友との死別があり、深い喪失感が描かれている。
どれか1つの悲劇だけでも十分に映画の素材になるのだが、複数の悲劇を背負っている。
今後も、チューリングは悲劇の生涯を示すアイコンとしてたびたび引用されるはず。
チューリングを思い出すことで、さまざまなマイノリティへの眼差しが変わってくる気がした。
アメリカン・ドリーマー 理想の代償 | 既存業者の嫌がらせに苦しめられる
1981年のNYが舞台。
石油業界で事業を拡大する主人公アベルが、様々な危機に直面する。
主人公アベルはヒスパニック系の移民だが、石油業界で事業を起こして、頭角を現してきた成功者。
しかし、既存の石油業者からすれば、顧客を奪われているので、アベルのことが面白くない。
アベルの会社のタンクローリーが襲われる事件が相次いで、たびたび灯油を盗まれてしまう。(被害にあうのは常にアベルの会社)
既存業者からの嫌がらせなのだが、これが映画の柱になっている。
アベルには、他にも2つの危機がある。
1つには、全財産をはたいて石油タンクの土地の購入契約をしたが、銀行から融資が受けられなくなり、破産の危機が迫っていること。
もう1つは、検事がアベルの会社の不正を探って訴訟を起こしたこと。アベルとしては業界の慣例にすべて従っているが、新規参入のアベルの会社だけが標的になった。
ということで、映画はそれほどダイナミックな展開があるわけではなく、淡々とアベルの会社の危機と、アベルの奮闘を描写している。
成功者は何と戦っているか
アベルは顧客を獲得する才能に優れているため、事業家としてはすでに成功している。
アベルが延々と戦っているのは、暴力的な嫌がらせをする競合相手だったり、約束を急に反故にして融資を打ち切る銀行だったり、身の保身と手柄だけを考えている検事だったりする。
顧客を獲得することで成功者になれるほど甘くないのだった。
石油という荒っぽい業界だからかも知れないが、暴力や脅しとの戦いが待っていたのだった。
事業家はビジネスマンというよりは、戦国武将のようなものかも知れない。
灰色の80年代
最初、時代背景がわからなかったので、「やけに古い車が走っているな」という印象を持った。
ニューヨークの遠景も、高速道路も、落書きだらけの電車も、すべて妙に燻ぶっていて、なんか暗い感じがする。
途中でレーガン大統領が就任した1981年だとわかる。
1980年代のニューヨークの風景は、この映画の見所だと思う。
この映画の原題は、A Most Violent Year (暴力的な年)というもの。
主人公のアベルは、新規参入者であり、移民であり、理想主義者という設定。そういうマイノリティがやたら痛めつけられる時代だったということだろうか。