脳はなぜ「心」を作ったのか | 受動意識仮説は自己監視からの解放
受動意識仮説をテーマにした本。
人間は自分が意図するより前に体が動いている。つまり、体が動いてから、自分の意図で動かしたかのように錯覚する。
脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)
- 作者: 前野隆司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/11/12
- メディア: 文庫
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この仮説の出発点になったのが、1980年代のリベット教授の実験で、指を動かすと意図するより前に、筋肉が反応していたことにある。
通常は、「指を動かすと決めたから指は動いたんだ」と思える。しかし、実際は、「指を動かそう」と意図してから指が動くのではなくて、指が動いてから「指を動かそう」と意図したように感じられる。
一言でいえば、自由意志は存在しないという仮説。
無意識の行動が先にあり、意識(知情意)は常に後から形成される。
これが受動意識仮説。
じゃあ、なぜ、脳は「自分の意図」が先であるかのように錯覚するのだろうか。
ここが本書の核心で、エピソード記憶をするためにあるという。
「私」の意識が発生した理由
エピソード記憶というのは、今朝何を食べたか?仕事はどこまで進んだか?という日常の記憶。(意味記憶は、リンゴは食べ物だ、といった記憶)
進化的に、エピソード記憶が出来た方が有利だ。今朝何を食べたか記憶していないと、今何を食べるかの判断材料が少なくなる。昆虫のように食べ物に反射するだけの生物になってしまう。
エピソード記憶をするためには、意識が必要となる。ここがポイント。
日常の目に入る情報は膨大で、無意識はそのすべてを処理する。とても記憶はできない。
しかし、意識があるとどうなるだろうか。何かを自分の意志でやったかのような鮮明な体験として、特定のエピソードを記憶できるようになる。
自由意志の錯覚は、鮮明な体験のために必要なのだ。それはつまり、記憶するために必要だということ。
自由意志はなかった
上記のロジックから考えれば、本当は意識はなくて、無意識のやったことを自分がやったことのように後から錯覚するだけ。
しかし、その錯覚があるおかげで、日常の体験をエピソードとして記憶できる。進化的にエピソードを記憶した方が有利だから、その錯覚が生じたのだ。
なかなか説得力がある。
意識が錯覚だとすると心が安らぐ
自由意志があるとしたら、人間は後悔を持ち続ける。
「なぜ、あのとき、あれをやってしまったのか(やらなかったのか)」という後悔。
これらの後悔は、他の道も選べたはずだという前提がある。自由意志があるのだから、自分は別の道を選べた、という前提。
しかし、自由意志がないのだとしたら、後悔する理由がない。起きたことはすべて後から認知するだけなのだ。
だから、一切の責任観念とか、後悔から解放される。
要するに、現実をありのままに受け入れる仏陀の思想(東洋思想)そのものだと言える。
おそらく、人類はずっと、「自由意志がある」との錯覚によって苦しんできたのかも知れない。
すごいことを語っているように思えるのだが
本書のテーマは、哲学上の問題を解き、人間存在の謎を明らかにするような大きなものだ。その割には、今一つ知名度がない。
科学者たちは、受動意識仮説をどう思っているのだろうか。
その実験からの解釈としてはやや拡大気味だし、仮説自体は真偽が問えないから、黙殺しているのかも知れない。
しかし、もともと物理学的に自由意志はありえないとされてきたわけで、じゃあなぜ自由意志があるかのように感じられるのか?という重要問題を本書は見事に説明している(ように思える)。
仮説だとしても、知っておく価値のある仮説だと私は思った。