東京難民 | 若い頃に親の庇護がなくなったら誰でも
映画「東京難民」を観たので、感想をメモ。
大学生の主人公が、学費未納により除籍される。その後、ネットカフェ難民となって、坂道を転がるように転落していく。
ネットカフェ難民が騒がれたのは2007年前後だったと記憶している。原作はその頃に書かれたらしいが、映画化されたのは2014年。
モラトリアムがないことの悲劇
おそらく多くの人が感じることだろうけど、この映画を観ると「自分でも起こり得る」と痛感する。
仮に、私が大学生の頃、家庭の事情で経済的な保護がなくなったら、どうなっただろうか。
- どんな仕事をしたいのかわからない。
- 金を稼ぐようなスキルもない。
- 仕事を続けられるような精神的な成熟がない。
結局、目先の金をえるために、底辺の職を転々とすることは間違いない。
なんとか食べていけるようになるまでのモラトリアムがあったおかげで、私は難民化せずに済んだだけ。これは運でしかない。
若い頃に親の庇護という安全装置がなくなったら、私は路頭に迷うしかなかった。
世の中の難民化している若者は、本人に責任は一切ないと断言したい。突然、世間に放り出されたら、普通に生きていける若者はほとんどいない。
甘い時代の終わり
昭和の貧しい時代は、幼少期のころから「食っていくための大変さ」を誰もが身に染みて学んでいる。精神的な覚悟を誰もが身に付けていく。
そのうえで、高度成長の中で終身雇用の職場がある。蕎麦屋の丁稚奉公になっても、普通に家庭を構えて持ち家が持てる時代。
だから、昔は貧しかったといっても、この映画のような悲劇とは意味合いが違う。
現代は、社会が豊かになって危機感がなく、精神的な成長が遅くなる。そのうえで、昔のような終身雇用はごく一部で、安定した職場が少ない時代に入っている。
この映画に書かれている悲劇は、現代に特有のものだと思う。
将来はどうだろうか。
20年後30年後にこの映画を観た若者は、幼少期から危機感を学んでいるはずだ。この映画を観たときに、「主人公の甘さ」を責めるようになっているかも知れない。
リアリティは控えめ
主人公は歌舞伎町でホストになるが、非情になりきれずに逃げ出すことになる。その後は解体工へと流れていく。
それはそうと、この映画はそれほど暗さはない。貧しさの心理的な圧迫感はそれほど描写されていないし、友情や愛情といった軸があるので、むしろ青春映画に近い。
貧困と裏社会の描写としては、ウシジマ君のような絶望的なリアリティはなかった。
ホストに入れ込んでソープ嬢に転落した女性にしても、ホームレスの暮らしにしても、悲惨さを描こうとすればいくらでも描ける。(ウシジマくんのように)
この映画はその方向ではなく、爽やかさを残しながら、生きることの困難を伝えている。