その夜の侍 | 退屈な日常の輪廻から抜け出る
映画「その夜の侍」を見たので、感想をメモ。
ひき逃げで妻を殺された中年男が、出所した犯人をつけねらうストーリー。
実力派の俳優陣が揃って出ていることで話題になった。
堺雅人、山田孝之、新井浩文、綾野剛・・・など。谷村美月や安藤サクラもこの映画を理解するうえで欠かせない役柄をこなしている。
ハラハラドキドキする分かり易い映画ではないので、上記のキャストをそろえなかったら、駄作になりかねない。
演技力のある俳優をそろえたことで、余韻の残る佳作になった。
特に、山田孝之の演技がすごかった。悪(ワル)のリアリティってのは、こういう感じではないかな。漫画みたいなワルの美学はどこにもなく、ダラダラと悪意が繰り返される。
これより以下はネタバレになります。
妻をひき逃げで殺された主人公は、出所したひき逃げ犯に脅迫状を送る。
明確な殺意があるので、最初は復讐を願っていたことは間違いない。
そして、相手を付け狙っていくうちに、微妙な変化が起きる。
どういう人間なのか知ろうとすればするほど、相手に中身がない。
ひき逃げ犯はどうしようもない悪意に満ちた人間だが、何一つ人間としての意志が見えてこない。
「なんとなく生きているだけ」
それは自分自身がそうだったように。
その夜の後で
最後の最後、主人公がプリンを頭にのっけて戯れるシーンが印象的だった。
主人公はプリンを食べすぎて、糖尿病になるほどだった。幼少期の欠落感を補うために甘いものに依存していたのだろうか。
妻を失ってからというもの、なおさらプリンを大量に口に流し込むようになっていた。
しかし、最後に、プリンで顔を洗うという、およそ明確な意思がないとできない行為に至る。
なんとなく流されるままだった行動原理から逸脱した瞬間だった。
犯人への復讐心も、退屈と孤独に流されるまま行動することの延長線上にあったことを暗示している。
妻の留守電メッセージを繰り返し聴くのは輪廻そのもので、それを消去したシーンは輪廻から抜け出たことが示されている。
誰もが退屈と孤独に流されていた
この映画に登場する人物たちは、誰もが退屈と孤独に流されていた。うっかりすると見逃しそうだけど、以下のような描写があった。
ホテトル嬢の「退屈だから(売春している)」という言葉、犯人を嫌いながら付き従ってしまう子分の「ひとりになりたくない」という言葉、女性警備員が犯人を受け入れたあげく孤独を語る描写。
それは主人公も同じだったことは、亡き妻のブラジャーを持ち歩いたり、プリンの描写から明らか。
犯人もまた、最後になって、「暇だから」とカラオケに行く相手を携帯で探しだす。退屈と孤独を避けるまま生きていることが、ことさら強く印象付けられる。
誰もが流されるままに生きている存在であることを描写しつつ、主人公がその夜に流される人生を抜け出たことを暗示して、映画は終わる。
「孤独と退屈」といった人間の根源的なテーマと、犯罪遺族の復讐を結びつけたのは、すごい設定だった。