プリンセス・マサコ - 菊の玉座の囚われ人 | 伝統への無力感
オーストラリア人の著者が、日本の皇族について書いた本。メインテーマは雅子妃だが、幅広く書かれている。
本書が(洋書で)刊行されたときに宮内庁が抗議して、日本での翻訳書が発禁処分になった。たしか10年以上前だったと思うが、ずいぶん話題になった。
発禁処分といっても、単に出版社が自主的に発行を見合わせただけらしいが。その後、別の出版社から発行された。
当時は読んでいなかったが、今回たまたま見かけて一読してみた。
なぜ問題になったか
著者は外国人なので、皇室の人々をあくまで一人の人間として書いていて、日本のメディアのように特殊な配慮はしていない。
ここらへんが、保守的な人にとって受け付けない部分なのだろうか。
一部にスキャンダルな内容があったが、それは秋篠宮家についてのことで、真偽はともかく日本の週刊誌でかなり昔に既報の内容だと思われる。
あと、元号について事実誤認があり、しかもそれが昭和天皇の戦争責任に触れるような記述だったので、その一文に怒りを感じた保守系の人がいるかも知れない。
そういった部分はあるものの、ほとんどのページは、とりたてて騒ぐような内容ではない。
宮内庁が大騒ぎした理由
本書では、皇室に関わるお金の話題が出てくる。その部分の記述は、日本では完全にタブー視されている。
皇室のコストは、日本の経済力から考えると微々たる金額なのだが、お金に苦労している庶民が反感を持ちかねないので、タブーになっている。
そもそも宮内庁の予算に群がっている人たちが大勢いるわけで、官公庁がもっとも嫌がる話題に違いない。
この本で宮内庁が大騒ぎしたのは、お金の話題に触れているからだろう。
結局、何が書いてあるのか
要するに、雅子妃の結婚騒動から、結婚への過程、そして適応障害とされるに至るまでのことを時系列に書いてある。
特に、結婚して皇室に入ってから、雅子妃が籠の中の鳥として扱われることの意味合いがリアルに記述されている。本書を読んで、心身に不調をきたすのも無理はないと痛感した。
皇室という伝統的なシステム(それを支える宮内庁を主とする人々)が、ひとりの人間を残酷に追い詰めてしまうほど柔軟性を欠いたものであることが書かれている。
宮内庁にたいする批判が多いが、結局は日本国民の誰もが皇室について思考停止していることに気づかされる。
本書の中で印象に残った部分がある。
皇室の身の回りの世話をする人々は、皇室に近い人たちなのだが、それらの人々が週刊誌に皇室のプライバシーを暴露しているという。
真偽はともかく、誰かが虚実を混ぜてメディアに漏らしていることは間違いなく、そのような人間に監視されながら暮らさなければならない皇室の人々の心中は察するに余りある。
興味深い部分
本書の中で読むに値するのは、海外メディアで報じられた内容とか、皇室の人々と接した外国人の肉声だろう。
皇室の人と過ごした外国人は、「彼は~」「彼女は~」というように率直に感想を語ったり、具体的に記述してしまう。
要するに、長所も短所もある一人の人間として皇室の人々を語る。
ある意味で、皇室の人々を一人の人間として身近に感じることができる。
日本では皇室を腫れ物に触れるように記述し、予定調和でしか語れない。(だからといって、以前に問題になったような週刊誌による誹謗中傷は論外)
伝統の前で思考停止する癖を治したい
一読して感じたのは、伝統にたいして私たちがいかに無力かということ。
何かが起きていても、伝統となれば、誰もが正面から向き合おうとしない。むしろ、何も起きていないことにするために、誰かを犠牲にする。
何も起きていないことして伝統を続ける、という暗黙の前提が、私たちの根底に巣食っている。
多少の想像力があれば、皇族の人たちがいかに生きずらい人生を強いられているか、理解できるはずだ。
こんなことを書いているが、皇室制度がどのように変わるべきなのか、私自身もわからない。
せめて、皇室の人々に理想像を押し付けたりするような時代錯誤をやめて、一人の人間として当たり前の共感をもって理解したいと思った。