ガンがゆっくり消えていく | ガンは治って当然
私の叔母は40代のときにガンで亡くなっている。
日本人の2人に1人はガンになるし、ガンは死因のトップ。
この歳になってガンを身近に感じることがあり、ガンについての心構えを知りたくて、ときどきガン関連の本を読んでいる。
この本は、ガンの常識を根本的に変える。
本来、人間がもっている自然治癒力でガンは消滅するものなのに、なぜガン細胞が増殖したのか。
ガンになったら、こう考えること。
この本の方向性に賛成
「ガンは生活習慣病」だと最近ようやく知られてきたけど、生活習慣によってガン体質になってしまったわけだから、体質改善がもっとも重要になる。
食事、心の持ち方、体を冷やさない、運動。これらが大切で、中でも「ガン性格」を変えることがベースになるという。
著者自身が末期がんから回復して20年以上元気に暮らしているし、「いずみの会」の数多くの参加者たちもガンを克服している。著者に賛同する医師も多い。
私も、この路線でガンと向き合っていきたいと思った。ガンと診断されていない今のうちから、生活習慣の改善をしていきたい。
玄米採食を徹底するのはさすがにきついが、近づけたい。
あと、絶対に医者任せにはしないと心に誓っている。
俺はまだ本気出してないだけ | 娘のキャラがいい
迷える中年の映画「俺はまだ本気出してないだけ」を観たのでメモ。
会社をやめて自分探しをする中年の物語。
漫画家を目指すことにしたけど、現実は厳しい。
この映画の原作となった漫画は以下。
(途中まで読んだことがあるけど、残りも読むことにした)
独特の侘しい空気感が漂う。
絵はそれほど上手くないのに、登場人物が生きていて、すごく面白かった印象がある。
娘のキャラがいい
この漫画は中年の危機を描いているわけだけど、誰でも40歳を過ぎると、「俺の人生はこのまま終わってしまうのか」といった感覚がやってきて、何かが間違っていると悩む。
同年代の私からすれば、すごく共感できるし、ホッとできる。
この物語の主人公は勢いで会社をやめて、自分探しをして、漫画家になろうとする。
自分を客観視できない「痛さ」が、様々なエピソードを通して、ほのぼのと描かれる。
娘のキャラクターがいい。
どこまで覚めていて、父のことを客観的に見ている。しかし、父に文句を言うでもなく、達観したように微笑みながら、父を見守る。
親がダメだと、子供の精神年齢はどんどん上がってしまうのだろうか。
映画も俳優陣が好演
映画も十分に楽しめるコメディになっていた。
堤真一は「できる男」が似合う俳優だけど、「ダメな勘違い男」役もなかなか様になっていた。
そして娘役の橋本愛が、原作キャラをよく理解していて、好演していた。
SCOOP! | ラスト30分問題
芸能スキャンダルを狙うカメラマンが、押し付けられた新人を相棒にして、スクープを狙う。
前半はエンターテイメントとして十分に楽しかった。
福山雅治の自堕落なパパラッチぶりは、かっこいい俳優の癖が抜けないのでリアリティがないけど、逆にリアリティがありすぎても感情移入ができなくなる。
下ネタの連発でもクールに魅せることができるのは、福山だったからだと思う。
相棒と徐々に息が合って、スクープをものにしていくのは高揚感がある。
連続ドラマで見たかった
雑誌の編集部員たちも、人間がよく描かれていた。2人の副編集長と編集長。
こうなってくると、連続ドラマとしてそれぞれの人物を描き切ってほしかった。
新人である行川の成長をもっと緻密に描けるし、チャラ源と都城の過去も描ける。
芸能界の闇、少年法と人権など、週刊誌絡みのネタはいくらでもある。
刑事ドラマの「相棒シリーズ」に対抗して、週刊誌記者の「相棒シリーズ」ができたはず。
後半30分に賛否
以下、ネタバレです。
チャラ源がクスリに溺れているのをわずか一言で暗示したのは良かった。
その伏線があるから、チャラ源が錯乱して殺しを行うのも唐突ではなくて、物語はつながっていた。
この映画は、日本映画にありがちな説明過多がなくて、ぎりぎりまでセリフや描写をしぼっているので、本当にセンスを感じる。
それはそうと、後半30分の展開は、個人的にはビミョーだった。
主人公が事件の被写体となって、あげくに死んでしまうのは、映画前半のノリと違いすぎる。
「あーあ」という感じで、お涙頂戴になってしまったのがもったいない。こんな湿っぽい映画じゃなかったはず。
この映画は、軽薄さと高揚感の中に、人間の葛藤が垣間見えるところがクールだったのに。
主人公の都城は、あくまで周囲の人間から「葛藤」と「成長」を引き出すブラックホールであって、悲劇のヒーローになるべきではなかった。
リリーフランキーの演技がすごい
その問題の30分間、リリーフランキーの演技が凄すぎる。
本当に演技なのか?というレベルで、びっくりした。
だからこそ、なんとも複雑な気分になる。
後半30分はない方が良い気がしたけど、こんな凄い演技をされたらカットはできない(笑。
東京難民 | 若い頃に親の庇護がなくなったら誰でも
映画「東京難民」を観たので、感想をメモ。
大学生の主人公が、学費未納により除籍される。その後、ネットカフェ難民となって、坂道を転がるように転落していく。
ネットカフェ難民が騒がれたのは2007年前後だったと記憶している。原作はその頃に書かれたらしいが、映画化されたのは2014年。
モラトリアムがないことの悲劇
おそらく多くの人が感じることだろうけど、この映画を観ると「自分でも起こり得る」と痛感する。
仮に、私が大学生の頃、家庭の事情で経済的な保護がなくなったら、どうなっただろうか。
- どんな仕事をしたいのかわからない。
- 金を稼ぐようなスキルもない。
- 仕事を続けられるような精神的な成熟がない。
結局、目先の金をえるために、底辺の職を転々とすることは間違いない。
なんとか食べていけるようになるまでのモラトリアムがあったおかげで、私は難民化せずに済んだだけ。これは運でしかない。
若い頃に親の庇護という安全装置がなくなったら、私は路頭に迷うしかなかった。
世の中の難民化している若者は、本人に責任は一切ないと断言したい。突然、世間に放り出されたら、普通に生きていける若者はほとんどいない。
甘い時代の終わり
昭和の貧しい時代は、幼少期のころから「食っていくための大変さ」を誰もが身に染みて学んでいる。精神的な覚悟を誰もが身に付けていく。
そのうえで、高度成長の中で終身雇用の職場がある。蕎麦屋の丁稚奉公になっても、普通に家庭を構えて持ち家が持てる時代。
だから、昔は貧しかったといっても、この映画のような悲劇とは意味合いが違う。
現代は、社会が豊かになって危機感がなく、精神的な成長が遅くなる。そのうえで、昔のような終身雇用はごく一部で、安定した職場が少ない時代に入っている。
この映画に書かれている悲劇は、現代に特有のものだと思う。
将来はどうだろうか。
20年後30年後にこの映画を観た若者は、幼少期から危機感を学んでいるはずだ。この映画を観たときに、「主人公の甘さ」を責めるようになっているかも知れない。
リアリティは控えめ
主人公は歌舞伎町でホストになるが、非情になりきれずに逃げ出すことになる。その後は解体工へと流れていく。
それはそうと、この映画はそれほど暗さはない。貧しさの心理的な圧迫感はそれほど描写されていないし、友情や愛情といった軸があるので、むしろ青春映画に近い。
貧困と裏社会の描写としては、ウシジマ君のような絶望的なリアリティはなかった。
ホストに入れ込んでソープ嬢に転落した女性にしても、ホームレスの暮らしにしても、悲惨さを描こうとすればいくらでも描ける。(ウシジマくんのように)
この映画はその方向ではなく、爽やかさを残しながら、生きることの困難を伝えている。
その夜の侍 | 退屈な日常の輪廻から抜け出る
映画「その夜の侍」を見たので、感想をメモ。
ひき逃げで妻を殺された中年男が、出所した犯人をつけねらうストーリー。
実力派の俳優陣が揃って出ていることで話題になった。
堺雅人、山田孝之、新井浩文、綾野剛・・・など。谷村美月や安藤サクラもこの映画を理解するうえで欠かせない役柄をこなしている。
ハラハラドキドキする分かり易い映画ではないので、上記のキャストをそろえなかったら、駄作になりかねない。
演技力のある俳優をそろえたことで、余韻の残る佳作になった。
特に、山田孝之の演技がすごかった。悪(ワル)のリアリティってのは、こういう感じではないかな。漫画みたいなワルの美学はどこにもなく、ダラダラと悪意が繰り返される。
これより以下はネタバレになります。
妻をひき逃げで殺された主人公は、出所したひき逃げ犯に脅迫状を送る。
明確な殺意があるので、最初は復讐を願っていたことは間違いない。
そして、相手を付け狙っていくうちに、微妙な変化が起きる。
どういう人間なのか知ろうとすればするほど、相手に中身がない。
ひき逃げ犯はどうしようもない悪意に満ちた人間だが、何一つ人間としての意志が見えてこない。
「なんとなく生きているだけ」
それは自分自身がそうだったように。
その夜の後で
最後の最後、主人公がプリンを頭にのっけて戯れるシーンが印象的だった。
主人公はプリンを食べすぎて、糖尿病になるほどだった。幼少期の欠落感を補うために甘いものに依存していたのだろうか。
妻を失ってからというもの、なおさらプリンを大量に口に流し込むようになっていた。
しかし、最後に、プリンで顔を洗うという、およそ明確な意思がないとできない行為に至る。
なんとなく流されるままだった行動原理から逸脱した瞬間だった。
犯人への復讐心も、退屈と孤独に流されるまま行動することの延長線上にあったことを暗示している。
妻の留守電メッセージを繰り返し聴くのは輪廻そのもので、それを消去したシーンは輪廻から抜け出たことが示されている。
誰もが退屈と孤独に流されていた
この映画に登場する人物たちは、誰もが退屈と孤独に流されていた。うっかりすると見逃しそうだけど、以下のような描写があった。
ホテトル嬢の「退屈だから(売春している)」という言葉、犯人を嫌いながら付き従ってしまう子分の「ひとりになりたくない」という言葉、女性警備員が犯人を受け入れたあげく孤独を語る描写。
それは主人公も同じだったことは、亡き妻のブラジャーを持ち歩いたり、プリンの描写から明らか。
犯人もまた、最後になって、「暇だから」とカラオケに行く相手を携帯で探しだす。退屈と孤独を避けるまま生きていることが、ことさら強く印象付けられる。
誰もが流されるままに生きている存在であることを描写しつつ、主人公がその夜に流される人生を抜け出たことを暗示して、映画は終わる。
「孤独と退屈」といった人間の根源的なテーマと、犯罪遺族の復讐を結びつけたのは、すごい設定だった。
ホームレス作家 | ドキュメントの凄み
困窮の中でホームレスになり、足掻いた日々を記録した本。
作家という職業の不安定さ、ホームレス生活の過酷さ、家族関係の難しさ等、読みどころが満載。
やっぱり一次情報が面白い
本書を読むと、ホームレスになって過酷な経験をしていないと、ホームレスの描写なんてできないことがよくわかる。
ホームレス生活のディテールから心理描写に至るまで、読んでいて凄みを感じる。
著者は自分の体験したことを書いていて、しかも、人生を賭けて書いているわけで、これが面白くないわけがない。
やっぱり一次情報が一番面白いんだと痛感する。
底辺に落ちたときに支えになるもの
いったんホームレスのように底辺に落ちると、さまざまな理不尽な目に合う。
そんなときに、著者には友人がいて、話を聞いてもらうことができた。それによって、精神状態が救われる描写が何度もある。
話せる人がいないと、諦め(絶望)によって完全な「浮浪者」となってしまう。そうなると這い上がることができない。
人間関係がないと、いったん落ちたときに心が持たないことがよくわかった。
まともに扱われることの重要性
著者はホームレスになっても服装に気を付けることで、ホームレスが経験するであろう侮蔑をぎりぎり避けることができた。
しかし、妻子を福祉行政に預けたことで、経済力を失った人が経験する屈辱を味わうことになった。
ホームレスにたいして、人々の眼差しはあまりに厳しい。同じ人間として敬意をもって接する人がいない。
人としての尊厳を無視されて、まともに扱われないことが、どれほど人間の心を傷つけ、そして回復不能にしていくか。
ホームレス問題を考えるときには、どこまでも彼ら一人一人を尊重すべき人間として接することが欠かせない。
プリンセス・マサコ - 菊の玉座の囚われ人 | 伝統への無力感
オーストラリア人の著者が、日本の皇族について書いた本。メインテーマは雅子妃だが、幅広く書かれている。
本書が(洋書で)刊行されたときに宮内庁が抗議して、日本での翻訳書が発禁処分になった。たしか10年以上前だったと思うが、ずいぶん話題になった。
発禁処分といっても、単に出版社が自主的に発行を見合わせただけらしいが。その後、別の出版社から発行された。
当時は読んでいなかったが、今回たまたま見かけて一読してみた。
なぜ問題になったか
著者は外国人なので、皇室の人々をあくまで一人の人間として書いていて、日本のメディアのように特殊な配慮はしていない。
ここらへんが、保守的な人にとって受け付けない部分なのだろうか。
一部にスキャンダルな内容があったが、それは秋篠宮家についてのことで、真偽はともかく日本の週刊誌でかなり昔に既報の内容だと思われる。
あと、元号について事実誤認があり、しかもそれが昭和天皇の戦争責任に触れるような記述だったので、その一文に怒りを感じた保守系の人がいるかも知れない。
そういった部分はあるものの、ほとんどのページは、とりたてて騒ぐような内容ではない。
宮内庁が大騒ぎした理由
本書では、皇室に関わるお金の話題が出てくる。その部分の記述は、日本では完全にタブー視されている。
皇室のコストは、日本の経済力から考えると微々たる金額なのだが、お金に苦労している庶民が反感を持ちかねないので、タブーになっている。
そもそも宮内庁の予算に群がっている人たちが大勢いるわけで、官公庁がもっとも嫌がる話題に違いない。
この本で宮内庁が大騒ぎしたのは、お金の話題に触れているからだろう。
結局、何が書いてあるのか
要するに、雅子妃の結婚騒動から、結婚への過程、そして適応障害とされるに至るまでのことを時系列に書いてある。
特に、結婚して皇室に入ってから、雅子妃が籠の中の鳥として扱われることの意味合いがリアルに記述されている。本書を読んで、心身に不調をきたすのも無理はないと痛感した。
皇室という伝統的なシステム(それを支える宮内庁を主とする人々)が、ひとりの人間を残酷に追い詰めてしまうほど柔軟性を欠いたものであることが書かれている。
宮内庁にたいする批判が多いが、結局は日本国民の誰もが皇室について思考停止していることに気づかされる。
本書の中で印象に残った部分がある。
皇室の身の回りの世話をする人々は、皇室に近い人たちなのだが、それらの人々が週刊誌に皇室のプライバシーを暴露しているという。
真偽はともかく、誰かが虚実を混ぜてメディアに漏らしていることは間違いなく、そのような人間に監視されながら暮らさなければならない皇室の人々の心中は察するに余りある。
興味深い部分
本書の中で読むに値するのは、海外メディアで報じられた内容とか、皇室の人々と接した外国人の肉声だろう。
皇室の人と過ごした外国人は、「彼は~」「彼女は~」というように率直に感想を語ったり、具体的に記述してしまう。
要するに、長所も短所もある一人の人間として皇室の人々を語る。
ある意味で、皇室の人々を一人の人間として身近に感じることができる。
日本では皇室を腫れ物に触れるように記述し、予定調和でしか語れない。(だからといって、以前に問題になったような週刊誌による誹謗中傷は論外)
伝統の前で思考停止する癖を治したい
一読して感じたのは、伝統にたいして私たちがいかに無力かということ。
何かが起きていても、伝統となれば、誰もが正面から向き合おうとしない。むしろ、何も起きていないことにするために、誰かを犠牲にする。
何も起きていないことして伝統を続ける、という暗黙の前提が、私たちの根底に巣食っている。
多少の想像力があれば、皇族の人たちがいかに生きずらい人生を強いられているか、理解できるはずだ。
こんなことを書いているが、皇室制度がどのように変わるべきなのか、私自身もわからない。
せめて、皇室の人々に理想像を押し付けたりするような時代錯誤をやめて、一人の人間として当たり前の共感をもって理解したいと思った。